曖 昧 に 生 き ロ グ 。

か わ い く あ い ま い に い き ろ 。( 伝えるのは下手くそですが、見てくださってる皆さんのこととても感謝しています )

ありがとうのために生きる

こんなことを言うのは恥ずかしいけど

昨日(22日)夜にご飯に行った友人が

自分の出会いを言葉にしてくれていた

 

すごいうれしかったと同時に

自分の中で立ち上がった思い

『この人に失礼のないように生きよう』

 

大事にしたいな。とても。

 

そっくりさん

似てるとか、分かるとか、一緒だとか

実はあまり使うのは好きじゃない。

相手にあわせてあえて使う時はあるけど

なんだか、おこがましいなと思って

あなたの感覚に全て立てるわけじゃないし、

見てる世界は絶対に違うんだから

 

というのを前提にしても

ああ、わかるって人に本当に久しぶりに会った。

 

聞く言葉、話す言葉、

ひとつひとつが、

『私も同じこと意識してる!!!』

『私が大事にしてること言われた!!』

みたいなのが多すぎて、

 

私は人から

『価値観が違う』『特殊な人』

『経験が違う』『あなたみたいになれたい』

ってよく言われてきた。

 

でも真っ当に

色んな経験して感情感じて考えてきた。

それでも線引きされることは多かったし、

だから、一歩引いて、そうなんですねって

そういうことが多かった気がする。

そして、それに諦めてる自分もいた気がする。

 

でも、

ああ、ちゃんと横に並んでくれる

一緒にひとつのものをみて話せてる

そんな感覚が久しぶりで、心地よかった

 

ありがとうのために生きる

 

私は自分が人の人生に関わることに対して

関わってはいけない とか

不幸にしてしまうのではないか っていう

先入観というか固定概念が強いところがある

 

高校までは特に顕著で

『私なんかがあなたの記憶に残って

 人生に関わってしまってごめんなさい』

そう思ってしまう人間だった。

 

ただ、

昨日の友人もそう、

自分が関わったことを、

その人の中で大事にしてくれる人、

私がどうこうではなく、

本気で私に向き合ってくれる人

 

そんな人に出会った時に、

この人たちにごめんなさいなんて

言うのは失礼だって思わされた。

 

だから、

『関わってくれてありがとう』を

かえせる人間になろう。

返すために生きよう。

そう思えるようになった。

 

 

それを最近またすこし意識から消えてた気がした

慢心してたのか、

別のことに意識が向いたのか、

 

でも、昨日の出会いで

あらためて根本にあるその思いを

大切にしたかったんだって

もっかい握れた気がする。

 

ありがとうのために生きよう

 

愛されたいんじゃないの、

あなたが私に関わってくれた時点で

わたしはもう愛されてるって思えてる。

 

それよりも、

わたしがあなたにちゃんと感謝と同じだけの

それ以上の愛を返せているか

ただその一つが怖いだけなの。

 

わたしの根本の欲求はそれなのです。

私はあなたを愛せていますか?

愛は届いていますか?

愛してもいいですか?  

 

そんな届けるために生きる私になりたい。