曖 昧 に 生 き ロ グ 。

か わ い く あ い ま い に い き ろ 。( 伝えるのは下手くそですが、見てくださってる皆さんのこととても感謝しています )

言えません。

 

生きることを強要しないで

 

と最近よく思う。

 

 

私は被害妄想がすぎるから

誰に言われた訳でもないのに

突然、周りの人から

何か言われているような気がしてしまう

 

昨日ふと思ったのは

そんなんで死にたいとか思ってんなよ

そんなことで死のうとしてるなんて

馬鹿らしい

そんなふうに思われてんだろうな

っていう思考だった。

 

みんなそれぞれがそれぞれの

生きにくい悩みをもってることくらいしっている。

その悩みがなにかは知らないし、

その重さもわかることはできないけれど。

誰かには誰かに理解できないほどの

悩みをもちながら生きていることは分かる

 

 

そんなひとたちから、

その程度のことで死のうと思うな

みんな死んだら楽かもっておもうことも

死にたいって思う経験もある

それでも、生きてるんだから

お前もそんなことで死のうと思うなよ

って言われている気がした。

 

 

わたしにとっては

生きることがなによりもの善で

死ぬことがなによりもの悪という

その思考は理解できない。

 

生きることを善としている人の

生きている理由や

生きる希望はその人にとっての理由であり

 

その理由と同じ理由が

私の生きる希望にも

生きる理由にもなり得ないのだ。

 

 

私は私なりの

生きる理由と希望が必要で

それを周りから持つことを強制されたり

生きることを強要されるのは

決して違うのだと思う。

 

 

生きる理由と死ぬ理由があったとして

それが耐えず人の中では

それぞれ何%かの割合で存在しているのでは

ないだろうかと思う。

 

生きる 100  死ぬ 0 の人は

いるのだろうか。わからないけど。

 

生きる100 ~ 生きる 75 位までが

「生きるって楽しい!」「生きたい!!」の

人々な気がしていて

 

生きる 75 ~ 生きる 50 位までが

「なんで生きてんだろうな」

「辛いけど、生きてりゃいいか」の

人々な気がする

 

生きる 49 ~ 生きる 25 くらいの人が

「死にたいなぁ」

「なんで生きる必要があるんだろう」の

人達で

 

生きる 24 ~ 生きる 1位の人が

「どうやって死のう」

「死んだ方が幸せだ」って思う、

 

生きる 0 になったとき

満を持して「死のう」と思う。

死ぬことがなによりも幸せな選択になる。

 

 

私は元気な時でも

50 50 くらいのところを

反復横跳びしながら生きてる

 

死ぬという選択肢が

いつも生きると同じくらいの選択肢として

目の前に存在している感覚がある。

 

 

だから、生きるがぜったい善で、

死にたいなんて 

ほんとに思ってないけど

たまに選択肢にチラついたりするよね

みたいな感覚はあまり分からない。

 

 

選択肢に入らない人にとっては

生き地獄のような毎日で

逃げ道がなくて

それはそれでしんどいのかな

なんて想像したりもする。

 

 

死ぬって選択肢があるんだから

生きるなら好きに生きようかな

って割りきれたりするだけで

 

 

生きる ことが 絶対で

生きなきゃいけなくて

生きてればそれでいいなんて

そんなこと口にもできない。

 

 

私が生きててよかったって

ゆってくれるそのひとは

その人がよかっただけで、

 

例えばそれでも私が死んだとして

それであなたは死なないでしょう

あなたの生きる理由が私ではないから

あなたなりの生きる理由があるから。

それでいいんだとおもう。   

 

 

だからこそ、

あなたがよかったとおもうから

あなたが悲しまないからという理由で

私をいきさせようとするのは

やめてほしいと思うのです。

 

 悲しむ人がいるから死なないという

理由で生きることは、

生きるということではなく

死なないということでしかない

 

それこそ生き地獄だと思う。

 

 

 

生きていることが

絶対的に正しいから

死にたいなんて言うなよ

死ぬなんて言うなよ

俺だって苦しいけど生きてんだ

 

なんて、

私は言えない。言えません。

 

あなたが幸せな選択をすればいいんじゃない。

そう思います。