曖 昧 に 生 き ロ グ 。

か わ い く あ い ま い に い き ろ 。( 伝えるのは下手くそですが、見てくださってる皆さんのこととても感謝しています )

曖昧に生きログ。始めます

    今年のテーマに合わせてブログの名前を変えました。

 

 か く れ ん ぼ 

 改めまして

 曖 昧 に 生 き ロ グ 。

 

 今年は、どれくらい更新するんだろう。笑

 そこらへんは例年通り緩く生きますね。

 

曖昧に生きログ。の由来

 今年私は 曖昧 に 挑戦してみようと思います。

 

 自分の守り方は

 線を引くことだと

 線を張ることだと

 

 境界線をひたすらに明確にしようと

 そうすることで自分をしんどくさせない

 ちゃんと自分を守れる場所を明確にしてきました。

 そうやって自分の居場所を作ってきました。

 

 でもそうできるようになったけど

 それができたのもこの一年でやっとでした。

 2、3年前の私は、境界を簡単に飛び越えて、

 自分の不幸と他人の不幸を一緒にして、

 そして、自分も周りも苦しんでいるだけでした。

 

 だから、ちゃんと大切にする人を決めること

 大切にできることに線を引くこと。

 大切にし方に距離を取ること。

 そうやってちゃんとみつけた自分の大切にする方法は

 とてもとても幸せになれました。

 

 だから、もう一度挑戦します。

 

 今度は私が曖昧であると。

 

曖昧である。と

 

 曖昧であると。

 

 今まで決めてきた自分の境界の中で

 私は十分、いっぱい幸せをもらいました。

 幸せを作れるのだと、

 私は幸せになってもいいのかもしれないと。

 

 でも同時に、少しだけ、少しだけ

 しんどき時もあるんだなって気づいた。

 

 こうして、私は、

 境界線をつくることで幸せでもあれるけれど

 同時に、怖さや恐ろしさがあるのだと気づきます。

 

 この線を超えたらだめだ    と

 この線は超えてもいい線なのか と

 あの人は線を超えていないのか と

 

 だから、

 幸せになれる、幸せにできる自分で

 この線を緩めてみたいと思いました。

 

 無くさなくていい。大切なものだから。

 だから、ちょっとだけ反応しなくなる。

 鈍感になる。甘くなる。緩くなる。

 

 そう、だから曖昧である。と

 

今日の曖昧に生きログ。

 

 こんな感じで、たまーに

 私の曖昧に生きる日々を共有しまする。

 

 誰かに少しでも共通するものがあれば。

 

 

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 不安とか怖いとかって感情って
 自分の中で勝手に感じているから思っているだけで
 言葉にしたり書き出したりすると
 ああなんだこんなもんなのかってなったりするんだよね

 って人にアドバイスしながら
 自分は不安にまみれていた〜 自分マジック。

 怖さって目の前におきてないことに対して
 勝手に自分が想定しているだけなんですよね。
 多分実際に目の前でおきたら、それって怖さというよりは
 痛み・悲しみ・怒りっていう具体的な感情や感覚になるから。
 とはいえ、だからって怖さがなくなることはないんですが、
 少しはこう思うと、怖さに飛び込む勇気は少しだけ湧きます。

 言葉にしながら、
 こんなことで落ち込んでるとか
 ちいさいな〜      とか
 まだまだだな〜     とか
 そんな私もかわいいな〜 とか

 思えているうちはまだ行ける。

 

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大切にしたい人の大切にしかた

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大切にしたい人の大切にしかたがわからない。

 

そんなことけっこうあるんです。わたしには。

気持ちと感情のつながらない感覚。

好きなんだけど、大切なんだけど、

この気持ちをどう扱ったらいいかわからない。

 

パートナーとはもともと正反対の人らしい。

 

生物学的な問題で、

人間は自分の価値観などから一番かけ離れた人に

魅かれるようにできているみたいです。

 

子孫繁栄をかんがえたときに、

自分にはないものを持っている遺伝子と

それをわけあうことで、

より良いものが後世に残っていくように。と。

 

だから、本能的に魅かれあうパートナーたちは、

総じて、人間関係上はもっとも合わない者同士らしい。

 

片方が、物事の明確さを大切にしていたら

もう一方は、あいまいさを大切にしていたり。

片方が、今を大切にするタイプなら

もう一方は、未来に生きたいタイプだったり。

 

そりゃ合わないよねって。

 

人にとっての”あたりまえ”は自分自身

 

人は、自分自身の考え方は”当たり前”なんです。

だって、何十年も付き合ってきた自分の考え方だから。

それ以外を本来的に認識も共感もできません。

 

人は無意識のうちに、

みんな自分と同じような考え方をするものだと

自分は”普通”の考え方だと、思ってしまう癖があります。

 

そう考えると、自分の考え方以外の方法で

相手と向き合うことが苦手といってもいいでしょう。

 

だからね、相反する相手だからこそ、

相手は相手の当たり前で大切にされたいし、

私は私の当たり前でしか大切にする方法が分からないんです。

 

だから、大切な人を大切にするのは難しい。

自分にとっての大切にする方法は、

私が大切にされてきた方法であり、

自分が求めている大切にされ方でしかないのです。

 

相手の人を大切にするという行為を

自分の方法で 大切にする とみるか、

相手がしてほしいように 大切にする とみるか。

 

でも、

相手のしてほしいように大切にする って相当難しいってこと、

これまでの話で分かってもらえると思います。

 

じゃあ、どうしたらいいの。

 

じゃあどうしたらいいんだろう。

そこにわたしは今止まっています。

 

わたしの中ではね、

・お互いの当たり前が当たり前でないことを認識すること。

・自分の大切にする方法は、相手にとってのそれではないこと。

・相手の当たり前を認識することは、とっても難しいこと。

これをお互いが分かり合えることだと思っています。

 

お互いに、それがわかれば、

お互いに相手のそれを受け止める準備ができるし、

相手のそれを相手なりの大切にする方法だと考えることができるし、

たまには相手がしてほしい大切にしかたってなんだろうって

なやんだり、それを打ち明けたりできるようになると思うから。

 

 

でも、これも、私の”当たり前”の話。

それを受け入れることが当たり前でない人がいること

それをわたしは理解しなければいけない。

 

 

だから、

 

あなたはわたしをこれっぽちも大切にしてくれない。

 

なんて考えたくないのです。

 

あなたなりの方法なのかもしれないって

そう思える人間になりたいし、

 

あなたなりの大切にされ方はなんだろう

わたしはどんなふうに大切にしよう を

考えられる人間でありたい。

 

 

そんなうまくいかないけどね。

なんて話。

人の根本は輝きだと思う。

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生命としての輝きが好き

 

自己表現という固い言葉を使うけれど、

それは、自分自身の命としてのありのままの輝きだと思う。

 

いろんな肩書や過去や、関係やしがらみや、

あなたを覆っているたくさんのものがある。

 

それは、例えば服のように、

素肌のままでは生きていけないから

傷つかないようにと、自分を守るために重ねてきたものでもあると思う。

 

だけど、だからこそ

どんな服を着るか選ぶように、

あなたはあなたの生きる世界を選ぶことができる。

 

本当のあなたは、

その服の内側の生身のあなた自身であるから。

すべてを脱いだあなたで歩いていてもね、

それはそれは、素敵で綺麗な輝きを持っているんです。

 

だって、あなたはここに生きているから。

命として産み落とされているから。

愛されて、世界からの愛を受け取って今そこに立っているから。

 

すべての生命が、

そんざいして、そこにある意味や、意義や、輝きが

必ずあるとわたしは信じてやまないタイプの人間なのです。

 

わたしの話。

 

わたしは、”自分は愛されない” ”人を不幸にしてしまう” という

服を着て生きてきました。

 

それは、わたしは好きで着たものではないと

誰かに、着させられて脱げなくなって、

そして、それが当たり前だと思っていました。

 

そして、だからこそ

自分の生身の自分の価値も疑っていた。

 

でも、実はその服だって、

自分で選んで着たんです。

 

親から暴力を受ける。

親からお前を産まなければよかったといわれる。

友達から裏切られる。

学校でいじめられる。

 

そんな中で、わたしは自分を守るために

一つの服を選びました。

服っていうよりは、鎧かな?

 

”愛されたい!”わたしでは、

”誰かを幸せにしたい!”わたしでは、

そんな生身のわたしでは傷ついてしまうと、

わたしを守るために、自分でこの鎧を作ったのでした。

 

でも、それをわたしは今知っているから、

自分でこの鎧を脱ぐことを選択できます。

 

そして”誰かに愛を届けるわたしでありたい”という

新しい服を自分で選ぶことができます。

 

 

その根本はね、

わたしの命、存在、生命体 に対する 愛情なのだと思います。

それは、わたしの命としての強さであり、

わたしの輝きになるのです。

 

やっぱり、生命として輝く人が好き

 

だから、わたしは

生命として輝けるあなたを守りたいのです。

 

あなたは、そんなもんじゃないって。

自分で自分の価値を決めつけるなって。

一回全部脱いでみたらいいじゃないって。

 

そんなことをおもっているけど、

私の周りには、

ああ、輝いていて、そして人間臭い

そんなひとたちがたくさんいます。

 

別にね、プラスな感情を言っているのではなく、

ただ、どんな感情もありのまま

そのままで、自分自身の生命として生きている

あなたがとても素敵なのです。

 

かく言うわたしは今焦っている

 

こんなこと好きに言ってみたものの

わたしはいまなにかって、”焦っている”んです。

 

わたしは、私の輝きたいように輝けているのか?

あなたの生きざまはこんなものなのか?

 

というよりは、

なんだろう、もっとね、奥の方から。

 

”もっともっと好きに輝きたい”

 

という欲求

 

 

好きな人と好きなことをして

好きな言葉を使い、好きな表現をする。

 

そして、嫌な感情も、好きな感情も

そのままに、ありのままに強く歩き続ける。

 

そんな私でありたいんです。

というよりは、私はそう在れるはずなんです。

 

今持っているものを認識して

そして選択して脱ぎ捨てたいのです。

 

はあ、輝きの中で生きたい。

無性に世界がステキに見えた話。

自分という存在が

世界に溶けていくような不思議な感覚

味わったことありませんか?

 

今日の電車の中の出来事

阪急京都線

梅田から河原町の急行電車

 

携帯から音楽を流す。

曲は04 limited sazabys

 

インスタを開いてみる

高校の親友の投稿。

彼氏さんと1年6カ月。

出会って3年。好きになって3年。

 

知り合いの先輩の投稿。

彼女さんといよいよ結婚した話。

お似合いなカップルがお似合いな夫婦になる。

 

ああ、自分もあと3日で1年記念日。

普通なら、一緒にいることすら不思議な関係が

こんなにも長く、続いている不思議。

 

空は晴れて、綺麗な光が入ってきて

ああ、幸せだなって。

 

世界に自分が溶けていくような感覚を覚える。

 

生きてることも。

好きな人がいることも。

友達がいることも。

空が晴れていることも。

好きな音楽があることも。

 

すべてが奇跡みたいで尊くて、

こんなの当たり前じゃないんだって

永遠じゃないんだって

刹那的で悲しい意味じゃなくて

幸せで溶けていくような

体の芯に届くような不思議な感覚。

 

別に今が夢でもおかしくない。

いつ夢が冷めて、今まで全部嘘だよって言われても

そりゃそうかって笑ってしまえるくらい、

いまの世界は美しい。

 

幸せのためにこの世界は存在する。

 

きっと、すべてのものは何かしら存在する意味がある。

理由があって、そこに、ここに存在している。

 

それは誰かを傷つけるためでも、

誰かを悲しませるためでもなく、

 

幸せを交換することだったり、

幸せをだれかに与えるためだったりする気がする。

 

すべての存在が、

幸せになっていいんだよって

世界からギフトをもらって

この世界に存在している。

 

そんな気すらしてしまうくらい、

今日の世界は美しかった。

 

世界とわたしの境界がなくなって

世界に存在するすべての感覚が

自分に降り注いでいるかのようで

溶けてしまいそうなくらい。

 

今日も世界は美しい。

ありがとうのために生きる

こんなことを言うのは恥ずかしいけど

昨日(22日)夜にご飯に行った友人が

自分の出会いを言葉にしてくれていた

 

すごいうれしかったと同時に

自分の中で立ち上がった思い

『この人に失礼のないように生きよう』

 

大事にしたいな。とても。

 

そっくりさん

似てるとか、分かるとか、一緒だとか

実はあまり使うのは好きじゃない。

相手にあわせてあえて使う時はあるけど

なんだか、おこがましいなと思って

あなたの感覚に全て立てるわけじゃないし、

見てる世界は絶対に違うんだから

 

というのを前提にしても

ああ、わかるって人に本当に久しぶりに会った。

 

聞く言葉、話す言葉、

ひとつひとつが、

『私も同じこと意識してる!!!』

『私が大事にしてること言われた!!』

みたいなのが多すぎて、

 

私は人から

『価値観が違う』『特殊な人』

『経験が違う』『あなたみたいになれたい』

ってよく言われてきた。

 

でも真っ当に

色んな経験して感情感じて考えてきた。

それでも線引きされることは多かったし、

だから、一歩引いて、そうなんですねって

そういうことが多かった気がする。

そして、それに諦めてる自分もいた気がする。

 

でも、

ああ、ちゃんと横に並んでくれる

一緒にひとつのものをみて話せてる

そんな感覚が久しぶりで、心地よかった

 

ありがとうのために生きる

 

私は自分が人の人生に関わることに対して

関わってはいけない とか

不幸にしてしまうのではないか っていう

先入観というか固定概念が強いところがある

 

高校までは特に顕著で

『私なんかがあなたの記憶に残って

 人生に関わってしまってごめんなさい』

そう思ってしまう人間だった。

 

ただ、

昨日の友人もそう、

自分が関わったことを、

その人の中で大事にしてくれる人、

私がどうこうではなく、

本気で私に向き合ってくれる人

 

そんな人に出会った時に、

この人たちにごめんなさいなんて

言うのは失礼だって思わされた。

 

だから、

『関わってくれてありがとう』を

かえせる人間になろう。

返すために生きよう。

そう思えるようになった。

 

 

それを最近またすこし意識から消えてた気がした

慢心してたのか、

別のことに意識が向いたのか、

 

でも、昨日の出会いで

あらためて根本にあるその思いを

大切にしたかったんだって

もっかい握れた気がする。

 

ありがとうのために生きよう

 

愛されたいんじゃないの、

あなたが私に関わってくれた時点で

わたしはもう愛されてるって思えてる。

 

それよりも、

わたしがあなたにちゃんと感謝と同じだけの

それ以上の愛を返せているか

ただその一つが怖いだけなの。

 

わたしの根本の欲求はそれなのです。

私はあなたを愛せていますか?

愛は届いていますか?

愛してもいいですか?  

 

そんな届けるために生きる私になりたい。

子供と大人と矛盾

 

矛盾の中でもがいてる姿こそ

人間らしい瞬間を感じることはない気がする。

私はだから、矛盾の中で生き続けたい。

 

そんなことを思いながら

今それを書いておくことで

自分のこと正当化したいんだろ

って思いながら

今日もちょっとセンチメンタルに。

 

メンタルがタルタルソースなんです

 

今週の日曜日と昨日(22日)に

私氏が関わる二つの団体で

同じ問題を起こしてしまった。

 

そこに介在する自分が

とてもとても子供で悲しくなったりした。

 

私のくせとして、

人から否定されてると感じた瞬間の

メンタルの崩壊速度がおかし早い。

 

自分が否定されてるって感じた時、

どんな顔でそこにいたらいいかも、

言葉をどう受け取ったらいいかも分からなくなる。

 

相手はきっとそう思ってないし、

私がそう感じてるって見せたら嫌われる

それは否定される私が悪いのだから、

なにも私にはする権利がないと思う。

 

そして何も言えなくなる。

 

それが嫌だから、

否定されないような自分になるために

完璧であろうとする自分がいる。

 

それによって自分を正当化して、

自分を守るために誰かを否定する自分がいる。


大変めんどくさい性格だなぁと思いながら。

 

その思考の癖や、反応の癖が

2回ともでてしまったなあって思ったり。

 

頑張ってるのに!認めて!

 

私の中に存在する子供な私

『こんなに思い込めてるんだよ!』

『こんなに時間かけてるのに!』

『あなたはしないけど、わたしはやったんだよ!』

『頑張ったんだから認めてよ!!』

 

こんな感じ。

アウトプットの質やあり方など、

単純に私ではなくもの自体に対して

目の前にある現象に対して

 

もっとこうあればいい

というフィードバックをくれること。

それはとてもありがたいことだし、

チーム全体の価値発揮のためにとても重要

ってわかってる大人な私ももちろんいる。

 

そして基本的にはこのスタンスにたって、

あるべきものへのフィードバックを

わたしだって常に行っている。

 

でもわたしがされる側になった時

こんな子供なわたしが主張を始める。

 

『確かにできてなかったかもしれない、

    でもあなたはそうやって言うだけでなにもしてないじゃん。なにもしてくれないじゃん。

    わたしだってこれでいいか不安でわかんない中でわたしなりにがんばったのに、

    なんでそこまで否定されなきゃいけないの!』

 

そんな思いがだんだん沸き起こって

 

『自分は何もしてないししようともしてない受身なのに、相手にだけ否定するんはおかしいでしょ』

だったり

『私はここに対して本気だし、今日だって本気でこのために頑張ってきたし、

   なんで、行動一つで私のここへの思い全部否定されるの?』

だったりって

 

言葉が出てきてしまうんです。

 

根幹にあるのは

『がんばったことをまず認めてほしい』

 と

『私のできないが露呈することでみんなが幻滅して私のことを嫌いになることが怖い』

のおもに二つ。

 

嫌われたくないし、認めてほしい。

 

ただの自分を中心にして

相手に対して思った感情が露呈する。

 

このとき、周りの為ではなく、

わたしが私を守るためにしか、

言葉や行動を使わない自分

 

そこまでして何を守りたいのか。

そんなことまで思えたりする。

 

バランスのとり方

 

私は天秤座なのだけど、

なんか私の価値観そのものだなと思う。

 

相反するものが世の中なもわたしのなかにも

たくさんあって。

 

私はどれか一つを選ぶのではなく、

二つの相反するものの真ん中でいたい。

 

子供な自分と大人な自分と

どっちかでるときももちろんあるよね

うまくいなかいひだってもちろんあるよね

 

でも決めつけない。

でも偏らない。

だから、悩める。迷える。

 

悩むこと、悩むことは、

本当に大切にしたい現れだと思う

 

私はそういう意味では

疑う心って最高の愛だなとかおもう。

 

何に対しても。

社会に対しても団体に対しても

そして自分にも相手にも。

 

矛盾を抱えていることは、

なによりも人間らしくて

人間くさくて

 

わたしだからなんだな

生きてるなあって思える。

 

それを理由に逃げちゃいけないって思いながら

そう思うんだよねって思う自分

 

この矛盾というかバランスというかが

たまらなく好きだったり嫌いだったりする

 

だから明日もがんばろうって思う

そんなお気楽人間なんだろうなぁ笑

 

 

君の膵臓をたべたい

ある本を読みました。

 

君の膵臓をたべたい』 

双葉社 住野よる

 

あ、ちなみに、

ネタバレ覚悟で私が感じたことを書きたいだけなので、内容知りたくない人は読まないでね( ˙o˙ )

 

時系列の不思議さ

 

はじめに読み始めた時、

最後の結末から話を持ってきているのかと思った。

 

そして、その不思議さを埋めていく話。  

そう思って読んでいたので、

答えが見えている気がしながら読んだ。 

 

ところが、それは、 

クライマックスよりも全然手前で、

あれよあれよと見えてくる新しい真実に

最後は泣かずにはいられなかった。

 

ぶっちゃけ最初に思っていたのは、

膵臓の病気の彼女に恋した男の子が

彼女の死を前に伝えられなかった気持ちに

最後にようやく気づいた気持ちに、

後悔していくような結末なのかなと。

 

そんな、読者にとっても当たり前の、

余命宣告を受ける彼女は、

そのまま真っ当に最後を迎えるという

最後の日まで明日は来るという常識を覆された。

 

つくづく人というのは、

どの人にも同じ確率で訪れる死というものの

感覚がはてしなくゆるい生き物なのだと実感した。

登場人物からもおもったが、 

話の展開を信じていた自分からも

それを感じずにはいられなかった。

 

名前

この本には

話のメインとなる二人の名前が

極端に出てこない。

 

『君』と『【〇〇】くん』という表現

【〇〇】には主人公が自己完結的に

相手が自分をどう捉えているのかが入る

例えば【仲良し】くん、【地味なクラスメイト】くん

 

そして、彼は

彼女にも自分がそう見られるのを

どこかでおそれていた。

だから彼女の名前を呼ばなかった。

彼女が死ぬまで1度も。

 

だからこそ、

常に不思議な感覚で進んでいく物語。

名前が隠されている、見えない。

それと同じだけどこかに隠されてる何かがある

そんな不思議さを抱えながら最後を迎える。

 

二人の関係はそれくらい

不思議でこちらには伝わりにくく

そして、読者にすら隠されているような関係

 

死についての言及

わたしが死生観をテーマ関心に

おいていることもあり、

この本をよみながら、

そこを常に意識させられた。

 

なぜ余命一年と言われる彼女には

考えられる生きることの意味が

いつ死ぬかわからない彼には

考えられないのか。

 

なぜかどこかで

死は自分とは程遠いものだと。

目の前の人からも遠いものだと考えるのか。

 

彼女はいっていた

死ぬ前にやりたいことをしておけばって

あなただって明日死ぬかもしれないのに 

自分のやりたいことのために

時間をつかっていないのだから、

あなたにそれを言う権利はないし、

私の時間とあなたの時間は同じ価値のはず。

 

間違いなかった。

いつどこで死が訪れるかわからないのに

余命をつけられた彼女だけが

死を認識している。

 

それは、 ある意味余命を与えられた人の

特権のように思えた。

 

余命の与えられない私達は

いつ死ぬのかわからぬまま

そこに対して準備をすることも出来ない

 

この本をよんだからといって

その準備を始めた人は

はなしてどれだけいるのだろう。

 

唯一の愛情表現としての

2人は正反対の人だった

だからお互いに惹かれ、憧れ、羨んでいた

 

彼が彼女に

君の膵臓をたべたい』とゆったとき

それが彼の精一杯の愛情表現なのだと思った

 

だけど、

その続きを読んだ時、

2人の中でのお互いへの愛情表現が

最上級の愛情表現が

君の膵臓をたべたい』だった。

 

あれは、彼らの告白で、

二人だけの間の

たった一つの唯一の愛情表現だ。

 

正反対のふたりが、

最後には全く同じ思考をした。

 

二人の間のつながることば、

それがこれなのだと思った。

 

一方的に伝える言葉ではなく、

二人のなかの

唯一ふたりが交わる言葉だった。

 

こんなに美しいものは無いなと

心の底から思った。

不思議な感覚だった。

まだ言葉に出来てるように思えないけど、

これ以上書いても言葉にならないのだろう

というのは、わかる。

 

素敵な本に出会えてよかった